12月19日 報告 : 112名の方にご参加いただきました
2016年01月29日(金) 報告
難民など外国にルーツをもつ若者たちが語る
本イベントの開催概要は こちら から
独立行政法人福祉医療機構 社会福祉振興助成事業 として、難民などの外国にルーツをもつ学生による「個人発表&座談会」を開催しました。
当日は関係者含め、112名の方がご来場くださり、会場は予想をはるかに上回る盛況ぶりでした。
昨今の難民問題に関する関心の高まりに加え、日本で育ち、学び、社会人となった二世・三世の声が直接聞けるとあり、多くの方がお申込みくださりました。
- 個人発表 : 日本発!日本と外国にルーツをもつ『研究者の卵』 たち
- 座 談 会 : 難民など外国にルーツをもつ若者たちが語る『わたしたちの選択』
- 参加者の声 / 活動アルバム (当日の写真)
- 冊子『難民だった僕は 今、日本人として働いています』(社会福祉振興助成事業)
個人発表 : 日本発! 外国にルーツをもつ 『研究者の卵』
第1部は、大学3、4年生・大学院生による、個人発表です。
まずは4名の学生による、理系研究の発表。
iPS細胞から、血液や神経系の難病発生のメカニズムを研究している学生や、手話を画像で認識するシステムの開発など、自分たちの研究の最前線について発表しました。
次に、5名の学生が、自分のルーツにかかわる研究について発表。
8月に実施した「 外国にルーツをもつ学生の 『働き方』 発見セミナー 」 に運営委員として関わった学生には、その時の様子を報告してもらいました。
自分のルーツと日本の両方の文化を知り、両方とうまく付き合える学生ならば、グローバル人材になることは難しくないと思います。」
その他にもさまざまな発表が続きました。
インドシナ難民であった祖父・親が日本に定住するまでの軌跡
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私の父親は現在、日本の小さな靴工場で、低賃金で働いています。
しかし一族は代々技術者であり、ハノイ出身者の中ではエリート家系でした。父も秀才で、宇宙科学者を目指していたそうです。では、一体なぜ父の夢は叶わなかったのでしょうか。これは、南ベトナム軍空軍士官であった祖父が、亡くなる直前まで決して語ろうとしなかったお話です・・・(つづき)
日系定住者を取り巻く環境と、自身の就職活動について
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ブラジルのサンパウロ州で生まれた日系ブラジル人の三世です。
私の親世代は、経済状況により学業に取り組めなかった方が多く、専門性や学歴を問われない日本の工場で働くことは絶好の機会でした。しかし、過酷な労働条件に対して賃金が安く、景気の気まぐれで急なリストラを宣告されたりするなど不利な面もたくさんあります。
ブラジル人の友人を見ていると、親が子どもの進学に関心がなかったり、進学したくても家計のためにいち早く工場に就職してしまう場合が多いです。
しかし、数年前と比べて若者たちの意識が変わりつつあるように感じます・・・(つづき)
座 談 会 : 『 わたしたちの選択 』
難民、インドシナ難民二世、日系人・・・
この度の座談会の「語り手たち」も、さまざまな経緯で日本に「定住」し、経済的に困難な状況にありながら、進学・就職と、自分たちの人生を切り拓いてきました。
多文化共生社会の「担い手」として、外国にルーツをもつ若者たちを取り巻く課題について、学生時代から、さまざまな場で発表したり、その課題の解決のために行動してきた若者たち。
社会人となって、「今」感じることを、率直に語り合ってもらいました。
急な海外出張が入ってしまった語り手1名も、出張先からスカイプで参加してくれました。
「日本国籍をとろう」 (帰化) と考えたきっかけは?
「会社で海外出張を命じられても、親の出身国の情勢などから、いつもビザが取りづらいんです。ビザが取れても、空港で別室に呼ばれて質問を受けることもあって、これを機に、帰化申請をしようかと思います。」
「難民として祖国を離れたので、本来、『帰国』は出来ません。でも親と離れて暮らした幼少時代、自分を育ててくれた祖父のお墓参りに行きたいと思って、日本国籍をとりました。祖父のお墓は、アルバイトをして自分がたてたんです。」
「小さい頃は、自分がブラジル人であることが恥ずかしくて、私だけ違うのがすごく嫌でした。自分にポルトガル語は関係ない、と思って過ごしていましたが、母語を忘れていく娘を心配した親が、『家での公用語はポルトガル語』と決めました。今ではとても感謝しています。
多国籍の学生が多い大学に入学後、そこで『人は国籍ではないんだ』と気が付いたんです。日本国籍・ブラジル国籍ではなく、自分も周りと同じような人間なのだと捉えることができるようになりました。」
「日本人らしい名前」 (通称名) について。
「日本に来たばかりの頃は、今のように名前に漢字はなく、全部カタカナでした。でもカタカナの名前がクラスに1人という状況で、周りと違うのが嫌で、先生に漢字を一緒に考えてもらって、ずっと日本人っぽい名前で通していました。」
「社会人6年目になって、日本国籍を取得したのを機に、初めて日本名をつけました。日本とベトナムの懸け橋になりたい、という思いが込められています。」
「25年間、一緒に歩んできた名前なので、私は変えようとは思いません。」
「外国にルーツをもつ社員」として働いていて感じること。
「『グローバル企業』というイメージから、留学生などを積極的に採用はしていますが、受け入れ態勢の関係上、(社内の方針が)ドメスティックにならざるを得ない部分もあるようです。
私も初め、日本生まれ・日本育ちで、日本語はネイティブにも関わらず、『外国人だから、日本語能力試験を受けてください』と言われてビックリしたこともありました。」
「日本と海外にバックグラウンドを持っている私たちだからこそ分かる『感覚』というものがある。その意識を大切に、マネジメント・マニュアルを作ったりして、仕事にも活かしています。」
「祖国の復興のために何かしたい、という思いもあって、国際協力に携われる業界での就職を希望していましたが、日本の就活は、なかなか難しい。でもこの夢は、まだあきらめていません!
今の仕事場での同僚は、ジャマイカ、ドミニカ、モーリシャスと国籍は様々で、日本語ができるのは自分だけです。大変なことも多いけれど、鍛えられるし、やりがいはあります。」
「今日この場にいる人たちも、みんな経験してきていると思いますが、『大学に進学した外国出身者』ということで、どこの地域でも『ロールモデルとしてみんなの前でお話してください』とお願いされることが沢山あります。
でも、こうして同じようなバックグラウンドをもつ人同士が一堂に会して、お互いに意見交換ができ、それぞれの話を顧みる機会はほとんどありません。このような場を設けてくれた、さぽうと21に感謝したいです。」
参加者の声 / 活動アルバム (当日の写真)
- 現在、都立高校で教員をしておりますが、子どもたちの抱える問題や、卒業後の進路に
ついて考えるよいきっかけとなりました。 - 自分も修学旅行でシンガポールへ行った時にビザのことで別室に呼ばれて色々調べられ
たりされたことがあってとてもいやだったです。自分もこれから同じ経験をすると思う
ので参考にして自分らしくやっていきたいと思いました。 - きれいごとではない素直な言葉を聴くいい機会でした。外国にルーツをもつ人々が、当
たり前なんですが、社会人として普通に働いているということにこれまで思い至ってい
なかったことに気づかされました。これが珍しいことではなく、普通に受け入れられる
社会になると良いと思いました。 - 日本で働き、生活していく上で、障害になること(外見で判断されること)に対し、各々
の考え、また努力しているのが印象的だった。「簡単に架け橋になると言われるが、自動
的にそんな人材にはなれない」という話が興味深かった。私も日本人目線で(語学に関して)
外見で判断しているので、それぞれ努力しているのが新鮮に感じた。
当日の様子については 「 活動アルバム 」 をご覧ください
冊子 『難民だった僕は 今、日本人として働いています。』
難民問題への関心も高まっている中、実際に日本に「定住」することになった外国出身者、その家族は、困難に直面し、悩み、反発しながらも、それをしなやかに乗り越えつつあります。
今回の「座談会」で語り手として登壇した人の、手記やメッセージも収録された冊子です。
この冊子を通じて、日本に暮らす外国出身者の方々への理解促進につながれば幸いに存じます。
お問い合わせ (当日の資料ご送付希望)
発表内容が掲載されている「 当日プログラム 」や、冊子『 難民だった僕は 今、日本人として働いています。 』 をご希望の方は、下記のお問い合わせフォームよりご連絡ください。