役員紹介

役員紹介

会長 小松 博史

 2025年7月よりさぽうと21の会長を拝命しました小松博史でございます。どうぞよろしくお願い致します。
私どもの活動の始まりは、1979年に設立された「インドシナ難民を助ける会」(認定NPO法人難民を助ける会=AAR Japan)にさかのぼります。
当時インドシナ紛争の影響で祖国を追われたラオス、カンボジア、ベトナムの方々が難民として日本にたどり着いてこられていました。しかし日本で生活を始めたものの、言葉はもちろん、生活習慣や学校生活など、慣れない生活環境に大変苦労されておられました。
 
 日本で暮らすこととなった難民の方々に手を差し伸べようと、ごく普通の気持ちから、創設者・相馬雪香先生(AAR元会長、さぽうと21元理事長)が
日本で最初の難民を支援するための国際救援NGOとなる市民団体を立上げたのがその始まりです。私自身も同会の創立段階から学生ボランティアとして関わり、カンボジア、ラオスの難民キャンプで支援活動を行ってまいりました。
 
 日本国内での活動は生活援助、生活相談で、夏の合宿(難民の家族と日本人のボランティアで多い時には150余名以上が集い、日本各地で地元の方々を巻き込み、難民を知ってもらう意味も含め、2泊、3泊と研修会の開催を継続した)ではそれぞれが困っている生活環境、学習環境などの相談を受けました。4か国対抗運動会(ラオス・ベトナム・カンボジア・日本、何時も日本が最下位でした)ではお互い汗を流し、雪を見たことがない若者や子どもたちを連れてスキー合宿なども行いました。
 
 その後1992年にAARの国内事業を引き継いで“さぽうと21”が設立され、難民を助ける会と連携して活動しており、日本に定住する難民、中国からの帰国者、日系定住者の子弟をはじめとする外国ルーツの子どもたちや大人に対して、生活相談、生活援助金の支給や、学習支援室の運営から、日本国内で高等教育を受けようする方々にも当初から支援を行い、かれらの自立支援をしてまいりました。
他方、シリア、アフガニスタン、ウクライナなどでの戦争が続き、日本に避難してくる方々も増えてきています。そのような中で、私たちは今までの経験をもとに、これからも活動を更に進めてまいりたいと思っております。
 
 私自身の簡単な自己紹介をしますと、かつての国鉄に入社して、アフリカのタンザニア鉄道改良を始め、ベトナム、モンゴル、中国高速鉄道、ミャンマーの鉄道改良工事に携わってきました。
現在はインドでムンバイ・アーメダバード間の高速鉄道に携わっており、インドの鉄道エンジニアと共にと2028年の部分開業に向けてプロジェクトを進めております。さぽうと21の会長としてはインターネットの届く範囲でしたら、何処の国にいても、直ちに連絡がつき会合にも参加できるという、大変ありがたい時代になったものです。
 
 私たちは、これからも以上のような活動を通じて、日本に定住する難民等外国にルーツのある方々ばかりでなく、何らかの状況により生活困難となり、私たちの支援を必要とする外国人の方々への支援も模索しながら、その輪の拡大を検討し多国籍文化への支援の活性化の一翼を担ってまいりたいと考えています。
皆様のさらなるご協力をよろしくお願い致します。      
 
2026年1月
 
 
 
 

理事長   蘭(あららぎ)  信三

 はじめまして、2025年7月より社会福祉法人さぽうと21(以下、当法人)の理事長となりました蘭 信三と申します。
社会学者として大学で教育・研究に従事してきましたが、当法人には2021年からコミットしてきました。この度は理事長に選任され、その責任の重さを痛感しております。
というのも、日本が「多文化共生」へと舵を切る10数年も前の1992年に当法人は設立されており、難民や外国ルーツの皆様を支援する老舗だからです。
 
 当法人の活動の4本柱は<相談、自立支援、学習支援、緊急支援>でして、支援するのは来日間もない第三国定住難民や条約難民・避難民に加え、日本に定住している外国ルーツの人たちです。
日々の活動には事務局があたりますが、100名を超えるボランティアの人々によって支えられています。
90年代から30年間にわたって、外国ルーツの皆様の日本社会での「自立」に貢献してきました。
今後とも、縁あって日本で生活を始めた外国ルーツの皆様の自立と活躍が円滑に進むよう、ボランティアの方々、スタッフ一同、力を合わせて支えていく所存です。
 
 さて、戦後日本社会は30年程にわたって “単一民族社会” として同質性の極めて高い社会でした。
しかし1972年以降に残留孤児や残留婦人とその家族の日本への帰国(中国帰国者)と、1978年のベトナム難民(インドシナ難民)の受け入れによってそれは変化していきます。
 
 中国帰国者は15万人程、インドシナ難民は1万人余と2025年度の在日外国人数395万人の4%程度でしかありませんが、この二つの集団の受け入れが日本社会に大きな変化をもたらしました。
中国帰国者の場合は、「日本人の帰国」としての受け入れでしたが、実態は中国語・中国文化で育った人たちの受け入れでした。しかも中国帰国者は全国に帰国してきましたから、地方自治体がその受け入れに奔走します。
その支援は地域ぐるみのところもあり、そこで<相談、自立支援、学習支援、緊急支援>が手探りで始められ、中国帰国者支援のボランティアが誕生します。
 
 ベトナム難民の受け入れのなかで「内外人平等原則」という人権の国際規範が日本社会で標準化され、その難民支援体制が導入され、1979年に当法人の母体である「インドシナ難民を助ける会」
(現・認定NPO法人難民を助ける会)が相馬雪香によって設立され、多くの難民支援団体がそれに続いたのです。
 
 日本における「ボランティア元年」は1995年の阪神淡路大震災と言われます。
また、1990年に入管法改正によって南米の日系人が急増し、2001年の「外国人集住都市会議」を契機として「多文化共生」規範が地方都市にまで拡がっていくという見方が一般的です。
ですが、外国ルーツの人たちへの支援ボランティアも「多文化共生」の根本概念である「内外人平等原則」も70年代80年代に日本に導入されていったのです。
そしてそれらの実現と拡がりを担ってきたのが多くのボランティアだったのです。
 
 このようなボランティアはどのような人たちだったのでしょうか? 中国帰国者の場合、初期には敗戦後の「満洲」で苦しい経験をしてきた戦後引揚者の人たちが支援者でしたが、
それに日本語教育支援などから戦後日本社会で多く誕生した高学歴主婦層がそれに加わり、その中核を形成しました。
では、当法人やインドシナ難民支援のひとたちはどのような層によって担われたのでしょうか?(これは次回のコラムの宿題といたします)
 
 1970年代から半世紀が経ちました。
この間、日本社会にも「グローバル市民」、「外国籍市民」といった規範が形成されてきました。
また現在じつに多種多様な難民「移民」支援団体があり、また企業の支援活動があり、多様な活動が展開されております。
そして、その背後には多数のボランティアの皆さんがいて、それらの活動を支えているのです。
この半世紀、多くの人たちによって勝ち取られてきた価値や規範があるからこそ、外国ルーツの人たちとの「共生」は可能となっています。
そして、この半世紀の歴史のなかで、外国ルーツの多くの人たちが日本社会の様々な場で活躍してきました。
 
 日本の市民社会がかれらを支えただけでなく、かれらが日本社会(国際社会)を支えているのです。
「ポケモンgo」で世界的に有名な野村達雄さんは中国生まれの残留婦人三世でした。
野村さん以外でもこのように活躍している人は少なくありません。そしてその卵は当法人が継続してきた生活支援生や坪井基金(奨学金制度。社会福祉法人では奨学金という表現ができない)
が支えてきた多くの支援生です。
『外国にルーツをもつ私たちのエッセー集』(2025年刊)を読んでみると、かれらが掴んできた力強い「生きる希望」と、「そこはかとない不安」とが読み取れます。
 
 この半世紀の歴史で先輩たちが勝ちとってきた難民支援を支える市民社会の形成と、日本で生きる多くの外国ルーツの人たちの血のにじむような努力は、日本社会が勝ちとってきた歴史です。
「日本人ファースト」という一時のきまぐれな波でなかったことにはできません。
外国ルーツの若者がその夢の実現に向かって安心して努力できる社会にむけ、私たちはいまが踏ん張りどころだと思います。
 
2026年1月

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