支援生OB ファム ・ ニーブンさん
- 支援年度
- 2009年~ 生活支援生
その後坪井基金支援生 - つながる国・地域
- ベトナム、マレーシア
- 来日時期
- 1990年(1歳10か月)来日
- 卒業校または専門分野
- 学部時代に東京理科大学工学部で経営工学を学び、現在東京工業大学大学院修士課程で技術経営を研究する。
自分が何者かよくわからなかった子ども時代
最近、将来のことを考えて家族のなかで自分だけなのですが、日本国籍を取得しました。悩んだ末に名前は変えず、カタカナで名前を登録しました。
ルーツは両親ともにベトナム。自分自身の生まれはマレーシア。日本には1歳10か月のときに来ました。ベトナムでの生活経験はないけれど、家族とともに何度か行きました。小学校2年生くらいのときにはじめて行って、以降6回くらい夏休みなどを利用して行きました。父はホーチミンの出身で、母はホーチミンから車で数時間いったビンロンという町出身です。戦争中、南ベトナムからマレーシアへ家族が逃れ、そこで僕が生まれました。7つ年上の兄がいるのですが、移動中にボートが転覆してしまい、父が幼い兄を抱えて必死に生き延びたのだと聞きました。難民として救済され、どこの国へ行きたいかと聞かれたときに、勤勉で同じアジア系で見た目もあまり目立たないだろうという理由で渡航先に日本を選んだのだそうです。母は兄弟が多くて、11人兄弟で、オランダやアメリカなど、我が家は世界中に親戚がいると聞きました。
記憶は日本での記憶しかありません。それも保育園くらいのときからの記憶しかないので、日本に来たばかりのころのことも覚えていませんが、日本に来てすぐ、品川の国際救援センターで最初お世話になって、その後もずっと東京で生活しています。周りにベトナムの人も全然いないところで育って、特別違和感があったわけではありませんが、名前は一人カタカナだし、ずっと自分が何者なのかよくわからずにいました。
小学校は、保育園からの友だちが多かったので、外国人であることで特別扱いをされたことはありません。ただ、兄は小学校4年生くらいで学校に入って、すごく苦労したと聞きますね。日本語の習得も含めて大変だったって。僕は、兄がいたおかげで小学校でも中学校でも守られていた気がします。ひらがなの書き方とか、小学校のときの勉強も兄にすごく助けてもらいました。
進路選択
学校とかで自分が外国人だと意識させられたことはあまりなくて、むしろ家に帰ると「あ、そうだった」と思い出すことがありました。自分のバックグラウンドについても高校3年生くらいまであまりきちんと知らなかったです。アルファベットで書く自分の名前のスペルは、実は高校受験のときに初めて知りました。なんか知りたくなかったような、認めたくなかったような感じでした。
高校の選択は、費用の問題もあるので、私立は絶対無理という条件がありました。自分としては、一番難しい都立高校を目指そうと思っていました。勉強は好きではなかったけど、自分を追い込むのが好きで部活も学校の勉強も精いっぱいやって、いい成績をとることができていました。仲のよかった友だちの勉強方法を見習って、あれこれいろいろな問題集をやるのではなく、繰り返し同じ問題集を解く方法で勉強しました。がんばった分、点数に結びついていたのがおもしろくなって、どんどんやれました。推薦がもらえるように、英検も受けました。一番相談にのってもらったのは、中学2年生から通い始めた小さな学習塾のおばちゃん先生でした。
ふりかえればその根底にあったのは、「日本人のように生きたいのなら、周りの人よりも何倍も努力しなさい」といつも言っていた両親の教えだったような気もします。
高校からは憧れのサッカー部に入って、部活漬けの生活を送りました。高校2年生くらいから予備校でも勉強して、その後の進路の準備もしました。将来何をしたいという明確な目標があったわけではないのですが、他の選択肢を考えることなく、進学するものだと思っていました。高校生のころは、漠然と美容師をやってみたいなと思っていたこともあるのですが、それにしても、大学へは行こうと思っていました。勉強は学校のテキストとか、持っている教材を何度も繰り返し読んだり、練習したりして勉強しました。とにかくがむしゃらにやったという感じでした。
大学受験を失敗してどん底を経験
暗記科目も社会もあまり好きじゃないし、「理系を選んでおけば将来の選択肢が増えるよ」と言われて、理系の学部を選びました。できるだけ上に行きたいと思っていましたが、国立はセンター試験がうまくいかなくて、国公立はあきらめて私立を3校くらい受けました。最初はあまりいろんな大学を知らなかったので、単純に有名校ばかりを追いかけていたところがありました。ところが見事に失敗していまい、結果を見て頭が真っ白になりました。どうしようもなくなって、家族会議がひらかれて「もう我が家は解散だね。もう生きていくのをやめよう。お金もないし、一人じゃ勉強もできないでしょう」と言われてすごいショックだったのを覚えています。そのときに大失恋もして、なにもかも失った地獄の年でした。どうしようかと話し合い、なんとか続けさせてほしいと家族にお願いしました。予備校の先生や中学生のときにお世話になっていた塾の先生もかけつけてくれて両親を説得してくれました。そうして、1年間浪人生活を送ることになりました。食費などを削って、家族全員で協力して1年を過ごしました。
2年目の受験、国公立大学はセンター試験で思うように結果が出せず、最終的に東京理科大学工学部経営工学科に進学することになりました。経営工学は、理系のなかでも一番幅広く学べると思って選択しました。
父に連れられて受けたさぽうと21の面接
さぽうと21には、大学2年生のときに面接をしていただきました。実はその時、父に言われて、よくわからないまま面接に来たのです。当時、外国出身であるという自分のルーツに、まだ向き合えておらず、なにもわからないままに面接を受けしまい、面接官の方には厳しいお言葉をいただきました。支援生として採用されましたが、夏期研修会に参加して他の支援生に出会うまで、正直、自分が外国出身者としてサポートを受けることを受け入れられず、他の支援生と一緒にされたくないなんて思っていました。思えば、とても傲慢だったと思います。それまで、同年代の外国出身者の友だちが周りにいなかったので、勝手に根暗な人が多いんじゃないかって思っていました。でも、研修会で出会ったみんなは生き生きとしていて、自分に自信をもっていて、主張がはっきりしていて、話してみたらみんなおもしろいし、イメージが全く変わったのでした。外国出身という自分のルーツを認められたのは、みんなに出会えたからだと思います。
さぽうと21で先輩と出会って決めた進路
さらに、そのときに自分の進路を決定する運命的な出会いもありました。研修会のとき、ソファに座っていたら、話しかけてくれた先輩がいました。僕が大学3年生だった当時、大学院に行こうかなとなんとなく考え始めていたのですが、話かけてくれたその先輩も同じようなことを学んでいて、大学院で技術経営を研究していました。それで、その年に修了予定でコンサルタント会社に就職も決まっていました。コンサルタントの仕事には興味もあったし、あこがれもありました。その先輩の誘いで、大学院の授業を見学に行きました。聴講したその授業がすごくおもしろくて、もう絶対ここを受験しようと決めたんです。
技術経営って実践的であり、最先端の技術やビジネスについて学べ、自分の考えを自分の言葉で表現する能力を磨くことができるところだと思います。大学院のなかでも実務経験がないととても難しいと聞いていましたが、目標通りに大学院に進学できました。
社会のことをもっと知りたいと思って、積極的にインターンにもいくつも申し込んで参加しました。大学院では、課題がものすごく多く、どんどんたまっていくのでこなしていくのがすごく大変です。そんななか、昨年末父が病に倒れて、病院に行って医者や母の間で通訳をしなければならないし、就職活動中で第1志望だった会社に不採用になり、たくさんのことが重なり本当に苦しい年末年始を過ごしました。もともと自分を追い込むことが好きだった僕でも、こんなに不幸なことが続いて本当に辛かった。でも、やるしかない、がんばるしかないと、なんとか乗り越えました。やりたいと思っていたコンサルタントとして働ける会社に内定をもらい、最近、就職先も決まりました。父も、手術を乗り越えて、少しずつ快方に向かっていて安心しているところです。
将来の夢
今の目標は、信頼される人になることです。自分のこれまでの人生を振り返ると、とにかく出会いに恵まれていたと思います。いろんな人生の節目に、尊敬できる目標となる人に出会いました。予備校で出会ったチューターは僕のロールモデルだったし、さぽう21で出会った先輩は僕の進路に影響を与えてくれました。幸せを感じる瞬間は人と出会って、自分の視野が広がったり、自分の価値観が変わる瞬間です。一方で、あきらめなければいけない瞬間に不幸を感じます。これまで、外国出身であることで、周りにとっての当たり前が、自分には当たり前ではなかったり、あきらめなければいけない瞬間も何度かあったのですが、人との出会いを通して、人生の参考になる考え方を知ったり、努力することでできなかったことができるようになることもたくさんありました。だから、これからは、信頼され、与えられる側から与える側になれるようがんばっていきたいです。